ヒト進化ゲノミクスユニット(スバンテ・ペーボ)

概要

この地球上には、4万年前まで私たち(ホモサピエンス)以外にも人類が存在していました。絶滅してゲノム配列のみが分かっているデニソワ人は、アジアの一部に、そしてネアンデルタール人は、ヨーロッパに住んでいました。私たちと絶滅した人類との間には、どのような類似点や相違点があるのでしょうか。本研究ユニットは、デニソワ人とネアンデルタール人のゲノム配列決定を行った先行研究を発展させ、現生人類や絶滅した人類が持つ遺伝的変化を幹細胞やマウスに導入する研究を行っています。神経発達や行動に影響をもたらす可能性のある遺伝的変化に注目して、現生人類と絶滅した人類との間に表現型の違いをもたらした変化の特定を目指しています。

 

研究テーマ

現生人類のほとんど、またはすべては、絶滅した人類にはみられない遺伝子変異を共通して持っており、約3万個の一塩基置換と約100個の小さな挿入・欠失があります。しかし、これらのうち生物学的機能に影響を及ぼすものは、ほんの一部です。旧人類にはなく、現生人類に存在する遺伝子変異の例として、タンパク質中にみられる約100個のアミノ酸置換や、推定の調整要素にみられる約3000個の置換や挿入・欠失があります。

私たちは、このようなDNA配列の変異がもたらす生理学的な影響を調べるため、CRISPR-Cas9を用いて幹細胞のゲノム塩基配列の複数か所を精密かつ効率的に編集する新たな手法を考案しました。これらの手法を用いて、関連する表現型や類似の表現型に影響を与えると考えられる遺伝子変異が起こる前の状態、つまり旧人類であるネアンデルタール人が持っていた塩基配列と同じ状態に戻します。研究の対象は、軸索や樹状突起の伸長に役割を果たす遺伝子(SLITRK1、KATNA1、CALD1など)、神経前駆細胞の分裂に役割を果たす遺伝子(KIF18A、CASC5、SPAG5など)、代謝や行動に役割を果たす遺伝子(ADSL、GLDC、SLITRK1など)です。また、多くの遺伝子の発現に影響を与えると考えられる転写因子におけるアミノ酸置換も研究しています。いずれの対象においても、ヒト胚性幹細胞に複数の置換を導入し、未分化細胞や神経細胞、アストロサイト、脳オルガノイドに分化した細胞の表現型を解析しています。その影響が見つかった場合には、その遺伝子を個別に、または組み合わせて調査し、影響をもたらした原因が単一遺伝子の変異か複数遺伝子の変異かを明らかにします。さらに、いくつかの変異体をマウスに導入し、生物の代謝や行動にもたらす影響も調査します。他の研究グループと共同で、細胞表現型や生物の表現型を解析する研究もいくつか行っています。

長期的な目標として、より多くの変異体を組み合わせて、最終的に特定の経路、オルガネラ、機能を持つ「祖先化」したヒト幹細胞を作り出すことを目指しています。このような細胞株が集まると、現生人類や絶滅した人類に特有の細胞特性を研究する私たちや、その他の研究者にとって参考資料となります。具体的な例として、現生人類が旧人類と異なる特徴を持つ原因となる約100種類のアミノ酸変異のすべてが存在する細胞株や、そのほとんどが存在する細胞株を作成し、プロテオームを「祖先化」することを目指しています。また、転写因子をコードする遺伝子のアミノ酸置換と調節変化の両方を「祖先化」した細胞株を作成し、「祖先化したトランスクリプトーム」を持つ細胞の作成を目指します。

さらに、UK Biobankやバイオバンク・ジャパンなどの大規模コホートを利用して、祖先の変異型やデニソワ人、ネアンデルタール人に特有の変異型が、現代でも低頻度で発現しているかどうかを調査しています。この研究は、それらの変異型が人類にもたらす影響の研究につながる可能性があります。